私が初めて海外の紛争地域で仕事したのは


アフガニスタン




1988年 この年は ソ連(当時)が国際的圧力や 


アフガニスタンの反勢力ゲリラなどに悩まされ いつまでたっても平定できないことによる


ソ連国内の厭戦 (えんせん-戦争を嫌う) 気分などで とうとう撤退を決断した年でした



当時アフガニスタンに入るにはビザが必要で(今もかな?)


なんの後ろ盾も無い私がビザを取得できるわけがありません


そこで ある方(とっても怪しい人(笑))からの入れ知恵で偽団体をでっち上げることで


ビザが下りるということを知り


「日本アフガニスタン友好協会」 (そんなものは無かった)


この名刺を作っただけで


まんまと10日間のビザを取得できたのです




取材のメインはソ連軍撤退のシーンを撮影することでしたが


たった10日間では撤退の日まで届かなかったので


一度日本に戻り 2回に分けて行くということで大使館と約束をしました



1回目は首都カブールでの 「独立式典」の撮影 

(表向きは独立してましたが実態はソ連の傀儡政権でした)


2回目は 「ソ連軍撤退」



わたしは世界史にも掲載されるであろう歴史的な瞬間に 


その場にいられて撮影が出来るという幸運が 嬉しくて嬉しくて有頂天でした







うちのとらまる



記念式典の軍事パレードです


ここでもファインダーの中の世界に入り込んでしまい


もうコーフンしちゃって前へ前へ出て行くものですから


装甲車に轢かれそうになりました(笑)







うちのとらまる


アフガニスタン政府軍 の兵器は 当然ソ連製 








うちのとらまる


ザックザック


いつまでたってもまとまりのないアフガニスタンの人々にしては (今もですね)


よく訓練されていたと思います (ソ連頑張って教育したなって感じ)








うちのとらまる



兵士たちが敬礼している先には アフガニスタン最高権力者の・・・








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ナジブラ大統領 (真中)


彼はソ連軍が撤退したのち内戦で敗れ 縛り首で公開処刑されました






うちのとらまる






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女性民兵までが行進







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うちのとらまる

とうとう始めてしまいました・・・

最後まで出来るか自信が無いです・・・