2010年04月
アフガニスタン 9
2日目
日本のメディアの方々は
初めての紛争地域に来た 私のようなどこの馬の骨か分からないものにも
対等に接してくださっていました
私にとって彼らは 神さまみたいな存在で憧れの対象でした
NHKのO氏などは 7ヶ国語を操り アフガン政府の役人っぽい人に
ロシア語で 「君はKGBだろ」 なんて恐ろしいことを聞いていたりしていました
相手が誰であろうと態度を変えることなく 毅然とした態度で取材をされていた
この方は 今回のアフガニスタン取材の少し前
当時鎖国状態で どこのメディアも取材できなかったアルバニアの取材をされ
その貴重なビデオは世界中のTV局が欲しがり 買ったと聞きます
現在はポーランドのワルシャワをベースに テレビ○日のロンドン支局長をされているようです
ニュースステーションでリポートをされてるところを何回か見たことがあります
S新聞モスクワ支局長のS氏 この方は大変気さくな方で
何も分からない私を気にかけてくださいましたし
S新聞用の写真を撮る代わりに ソ連兵の取材に同行させていただいたりもしました
翌年S氏は 優れた国際報道を行ったものに送られる
「ボーン上田 国際記者賞」を受賞されました
今までアフガニスタン軍の写真は撮ってきましたが
肝心の撤退するというソ連軍の写真は 航空機を除いて殆どありませんでした
街中ではチラホラとソ連の兵士や装甲車は見かけるのですが
アフガンの私担当のお役人は 撮影はするなとのことでした
するなと言われると したくなるのがカメラマンの性
そんなに数はありませんが こっそり何カットかは撮影できました
バタバタバタバタ
ソ連製の戦闘ヘリコプターです
さすがにこのアングルはビビリます
カメラを構えるというのは 銃を構えるのにも似ています
隠れるとさらに怪しいので 堂々と撮影しました
ホテルの窓からこっそり撮影
客室の窓から狙いましたが
その部屋は私の部屋ではありませんでした
誰の部屋かといいますと
現地で知り合った日本人商社マン! のお部屋にお邪魔させてもらったのです
「もう帰りたいんですよ~」 と泣きが入っていました(笑)
いったい何の商売をしているのかを聞きましたら
いろいろあるそうでしたが 一番は魔法瓶をこちらで売っているようでした
こちらでは お茶(チャイ)を飲む習慣があるので魔法瓶は結構売れるといってました
そしてアフガニスタンからは絨毯などを買っていました
ちなみに バザールに行くとソ連から闇で流れてきたキャビアのカンヅメがあったのですが
日本円で350円くらいでした
いくつか買って帰って知り合いのカフェバーの店長に仕入れ値を聞いてみたら
たまたま同じ銘柄で 1800円!
いっぱい買って帰っていれば 一儲けできたでしょうね(笑)
S新聞のS氏が ロシア語で若い兵士に声をかけている隙に 隠し撮り
2日目終了
そして3日目の朝が来ます
私は朝の食事を終えて 部屋で機材の準備していました
トントン
ドアをノックする音
はーい と元気良くドアを開けたら
私担当の政府のお役人と
そしてもう一人背広を着た人間
さらに兵士2人(警察かも) が立っていた
?
何かまずいことになっているような雰囲気・・・
「あなたは今日出国してください」
「昼に迎えに来ますから 荷物をまとめておくように」
「ビザが切れました」
みたいなことを言っている
ちょちょーい!
なんでか理由を聞くと
「お前は今回 来れるはずではなかった」 らしい
どうにも---ならない らしい
くすんくすん泣きながら荷物をまとめ
他のプレスの方々に こんな事いわれたと云いつけに行ったら
「あーそりゃしょうがないわ」
「前回 捕まったもんね」
誰も抗議してやろうという人はおらんのか?
まあ正直この大事なときに
私なんかにかかわっている場合ではないのは 私もよく分かります
しょうがない・・・
あきらめて部屋に戻ろうとしたとき
「ああ もうーすくん」
A新聞 T氏が声をかけてくださった
はいはい何ですか!? 何かいいアイデアでも?
T氏に懐いて近寄る
「前回は武士の情けでしなかったけど 今回は記事にさせてもらうよ」
だと
冷たいのね 皆・・・
とほほー
私は 結局一番撮りたかったソ連軍の撤退の撮影は出来ずに放り出されるはめに
お昼
私担当のあんにゃろめは兵士を引き連れて 私を迎えにきた
ごていねいに空港までついて来て
さらに飛行機の中にまで一緒に入ってきて
私を席に着かせシートベルトをつけさせ
そして安心したように帰って行った
座った席のお隣は
ちょうど撮影したビデオテープをインドにに持ち出そうとしていたNHKのO氏
「残念だったね」
と一言声をかけてくださったあと
お隣の フランス人マドモアゼルジャーナリストと
フランス語で楽しそうにお話をされていました
聞き耳を立ていたら ウィ だけ解りました・・・
これで私のアフガニスタン取材旅行は 二泊三日で終わってしまったのです
この後 インドのニューデリーに到着してから また散々な目に遭います
カブールで預けた荷物はパキスタンに行ってしまうし
安物航空チケットだったから便の変更をするのが空港内でできないというので
空港の外の事務所で 子犬の目作戦を使い 何とか無料で予約変更をしてもらって
喜び勇んで空港に帰ってきたら
出発の1時間半前まで空港内には入れないと言われ閉め出され
何度お願いしても絶対だめだといわれ
気温44度の外で日陰でゴロゴロ寝ている人たちと一緒に寝て
我慢できなくなって空港職員の兄ちゃんに袖の下を(500円くらいだった)渡し
さらにバーでコーラをおごってやったら簡単に中に入れてもらえ
6時間くらい空港の中で飛行機を待ち
やっとの思いで日本に帰ってきて
次の日の朝刊を見たら
おわり
次回 番外編があります
タイトル 「アフガニスタン→六本木」
なんだかなあ・・・
アフガニスタン 8
うふふ
あはは
私は精一杯の 愛想を振りまいていました
場所は在日アフガニスタン大使館の一室
当時 大使館は神宮前4丁目交差点の角ビルの中にあったのです
ラフォーレ原宿のある交差点ですね
「いやホントに向こうでは皆さんに良くしていただきましたよ」
「これから良い国になっていく気がしています」
などと大使館員のお話に 適当に合わせて話ししていました
口が裂けても向こうで拘束されました なんて言えないし
必死で持って帰ってきた現場の写真も発表せずにいましたし
それもこれも再訪するためのビザが欲しかったから・・・
次のアフガン行きは 前回よりも重要でした
なんせアフガニスタンに10年間侵攻していたソ連軍が
ゲリラの抵抗に負けを認め撤退するという
歴史的瞬間に立ち会えるのです
私はこれを逃すものかと 必死に愛想笑いをしていました
笑ってビザをもらえるなら苦労はしませんが・・・
もらえたのです(笑)
そしてまたまた友好協会の名刺を持って (相変わらずこれしかない(笑))
やってきましたアフガニスタン
期待と不安の入り混じった 何とも言えない気持ちで
カブール空港に降り立ちます
ロシアの対地攻撃機が世話しなく飛んでいました
着陸態勢に入る攻撃機
フレアーを撒き散らしながら 飛行するロシア製輸送機
ご存知かもしれませんが これは赤外線追尾ミサイル(熱源追尾)から
機体を守るために おとりの熱源(フレアー)を放出しているのです
盛大に撒いてます
離陸する時 着陸する時が スピードも落ち狙われやすいので気をつけていますね
ソ連の撤退は数ヶ月に渡って行われ
完全に撤退完了したのが この時から約1年後
その第一陣が5日後にある予定でした
私はそれまでの間は大人しくしておこうと思い
アフガン政府が喜ぶ場所を撮影して回りました
たとえば ゲリラから押収した武器を展示してある建物なんかは
とても喜んでもらいました
その中にあったのが
アメリカ製 携帯型 赤外線地対空ミサイル スティンガーです
ソ連が撤退したのは これのせいと言っても過言ではないと思います
ゲリラたちは物量に勝るソ連軍相手に神出鬼没のゲリラ戦を挑んでいましたが
空からの攻撃には身を守る術を持ちませんでした
アメリカがこのミサイルを こっそりゲリラに供与したおかげで
ソ連は空軍力を制限されるようになったようです
どれだけビビっていたかはフレアーの写真で分かると思います
「わたしたちの聖地に 殺人と流血をもたらしたレーガン大統領からの贈り物」
みたいなことが書いてあります
これはひどい
おもちゃの中に仕込んである対人地雷です
政府はゲリラが使用したということで展示したのでしょう
犠牲者の子供の写真も ごていねいに置いてあります
真実は・・・どうなんでしょうねえ・・・
墓地の撮影にも行きました
もの悲しい風景でした・・・
そして1日目が終わります
私は前回から学んだことがあります
それは服装です
前回の服装はTシャツとかカッターシャツとかジージャンでした
はっきり言って
ただの兄ちゃんでした
そんな格好で 「オレはプレスだ」 と言っても信じてはくれないでしょう
私以外の皆が持っているプレスカードも無い
そんな私が頭をフル回転させてあみ出した必殺ファッション
カメラマンベスト 7500円
これで私もカメラマン
どうみてもプレスです
です
ですか・・・?
続く
もう少しの辛抱ですよ! 次くらいに唐突に終了しますから! (笑)
アフガニスタン 7
今回はちょっと文章が多く だらだらと長くなっております
どうかお許しください
予定の10日間のうちの3分の2を消化して
カブールにも少し慣れてきた頃
街に出れば穏やかな人々が一生懸命に生きている
その姿に嬉しくなり さらにシャッターを切ってゆきます
しかしそれは上辺だけの姿でした
他国や他部族の支配を許さないアフガンの人々は
ソ連が侵攻する はるか昔 イギリスでさえも撃退しています
現在はアメリカを主とした国際部隊と戦っている
この国は というか この地域はそういうところなのです
前回 公園で拘束される前にどこのメディアか忘れてしまいましたが
フランス人のジャーナリストが 当時 もう半年も拘束されていたのです
(観光ビザで取材活動を行った罪=スパイ容疑で逮捕)
その彼を釈放させるために 各国メディアがホテル内で署名運動を行っていて
私も協力していたのでした
そういう危うい場所であることは 頭では分かってはいるのですが
一見平和なカブールに惑わされてしまっていました
私はホテルの食堂で他の取材陣の人たちと一緒に昼食をとっていました
午後は政府案内の取材地巡りを控えていて
ほとんどのメディアはホテルにいたのではないかと思います
まだ時間に余裕があったので
カメラバッグはホテルの部屋に置いたまま (カメラマン失格ですな)
しかし1mmほどのカメラマン魂が残っていて
コンパクトカメラ (ニコンの防水コンパクトカメラ)は
胸ポケットにいつも入っていました
コンパクトカメラですから写りはたいしたことはないのですが
防水であり衝撃に強いタイプでしたので丈夫なカメラだったのです
アフガニスタンは乾燥していて 砂埃がすごいのです
一眼レフカメラはかろうじて故障は免れましたが
他に持っていたコンパクトながら写りが良いミノルタのCLEというカメラは
3日ともたずに故障していました
その点 防水コンパクトカメラはフィルム交換時さえ気をつければ怖いものなしでした
「ドスン!」
皆が食事をしているときです
文字で表現するとドスンしかないです
床が揺れました
この出来事で のんびりとした昼食の雰囲気が一瞬で変わりました
皆あわてて機材を用意しだしています
TVはすぐに動けないので大変です
とにかく何が起こったのかは外に出ないと分かりません
私は身ひとつでしたから すぐに対応できました
席を立ち ダッシュでホテル裏門を通り 路上に飛び出しました
500mくらい離れたところでしょうか黒煙がもくもくと上がっています
後ろを振り返ると さらに2名のスチールカメラマンが来ていました
その後ろでは兵士がホテルの門を閉めてしまい
他のメディアたちが閉じ込められていました
ホテルの裏門 (別の日に撮影)
ホテルから出られたのは 通信社のUPIとAFP そして私の3人だけ
タクシーか何かないか あたりを3人で見渡しましたが
残念ながら見当たらなかったので とにかく現場に向かって走り始めました
2、300m走ったところで 一番年配(40歳くらいだったか)のAFPカメラマンが
息切れで走れなくなりました
一度皆走るのを止めたのですが 先に行ってくれと言うので
UPIカメラマンと2人でさらに走りだしました
現場まであと100mくらいまで来た時に 今度はUPIカメラマンがへばりました
そして彼も 先に行ってくれと言い出しました
一瞬 「これはオイシイ」 「私だけの写真が撮れる」 「スクープじゃん」 と
脳裏をよぎりました が すぐに打ち消しました
スクープなんかよりも身の安全が最優先 (ここが三流)
いくら平和ボケした私でも こういう状況での単独行動はとても危険だということは知っていました
何かあったとしても目撃者がいて しかもそれがジャーナリストであることは
かなりの抑止力になり得ます
とまあ こんなこと書いてますが 要はひとりで現場に行くのが怖かったのです(笑)
「カメラバッグ持つよ!」 私は手ぶらだったし まだ元気があったので
彼のバッグを奪い取って また二人で走り出しました
そしていよいよ現場に到着
爆発から10数分経っていた現場は兵士たちが集まっていて
その現場を封鎖しようとしている時でした
ありがたいことに なぜか私たちが到着したエリアは兵士たちがいませんでした
私はカメラバッグをUPIカメラマンに返し 数枚シャッターを切りました
何枚かシャッターを切ってから 何が起こっているのかを肉眼で確認
負傷者でしょうか 全く動かない人間が最低6人は運び出されていました
隣にいるUPIカメラマンとも顔を見合わせ お互い「6人」を確認しました
そして次の行動に出るのですが
正直 現場のど真ん中に突入するのは なんとなくヤバイ気がして
私は上の写真右に写っているバスの裏から攻めようと思い移動し始めました
中途半端に写真を撮っています
移動か撮影かはっきりしろって感じですが
一場所に留まるということが何となく危ない気がしていたのでした
この後UPIカメラマンがどういう動きをしたかは分かりません
まっすぐ突入したのか左側から回り込んだのか・・・・
無事にバスの横に回りこむことができ
この一枚を撮った後 さらに前進し
バスの先頭部分に差し掛かって カメラを構えた時
誰かが私の背中を すごい勢いで突き飛ばしました
私はつんのめって2、3m前進しながら 思わずシャッターを切ってしまいました
その時の写真がこれ
もう本当にビックリして心臓が喉元まで出てました
コッソリいたずらをしていてドキドキしているところに
後ろから大声を出され突き飛ばされたら誰しもビックリしますよね
そんな感じ (笑)
心臓を飲み込み
後ろを振り返ると同時に2人の兵士に服をつかまれ引き倒されました
そして腹ばいになり 背中を硬いもの (靴か銃床) で殴打されました
しばらく兵士も興奮していて 何をされるのか全く分からない状態
一人の兵士は銃口を私の背中に押し付けていたものですから
このままここで殺されるのでは と恐怖を感じ
「撃つな! 撃つな! 撃つな!」
通じるわけもないのに私は日本語で叫んでいました
あっという間の時間なのでしょうが
永遠のような気がする中
少し周りが落ち着いてきたような雰囲気になりました
服の襟をつかまれて私は引き起こされ
銃を付きつけられてカメラを持ったまま手を上げて移動
その先にはロシア製のジープ型車両がありました
同型の車両 (別の日に撮影)
後部座席を覗いてみると
そこには うなだれてぐったりとしたUPIカメラマンが既に乗せられています
顔を見ると明らかに暴行された傷跡が確認できました
後部座席には 一番奥のドア側に兵士 次にUPI そして私
小型のジープのリヤシートは3人で満席状態
しかし私が逃げ出さないように私の後に もう一人乗り込んできました
当然シートに余裕が無いので 兵士は私のひざの上に半ケツを乗せています
ジープが走り出し 自分がいったいどうなるのか不安でしたが
私は妙に冷静になっていて 今やるべきことをやろうと思いました
そう 撮影フィルムを守ることです
幸いカメラは右手に持ったまま
その右手の位置は 私のひざに半ケツを乗せている兵士の
もう片方の半ケツの下で そこには空間があり 兵士たちからは死角になっていました
撮影していたところを見られているので もうカメラを隠すわけにはいきません
隠すならフィルムの方
そんなことが出来るのか分からないけど
何もしないでフィルムを取り上げられるのは しゃくにさわったのです
私は撮影したフィルムを隠すことに決めました
フィルムカメラはフィルムの巻き戻しという作業が必要
その巻き戻し作業を右手だけでやらなければいけないのです
巻き戻しが手動であったりしたら片手では無理
モータドライブ付の一眼レフカメラの巻き戻しは電動で出来ますが
2アクションが必要なので無理
しかしラッキーにも持っていたコンパクトカメラはよく出来ていました
カメラの底にある小さいボタンを押せば電動で巻き戻してくれます
(当時のコンパクトカメラはだいたい皆そうでしたが)
巻き戻しにはモーター音がしますが軍用車の騒音でかき消してくれました
巻き戻しがいつ終わったのかも分からないくらいに (笑)
ジープはまだ走っています
次はフィルムを取り出すために裏ぶたを開けなければいけません
この作業も 片手でレバーを下げるだけでパッカリ開きました
そしてフィルムをつまんで取り出したとき・・・
前の助手席に座っていた兵士が後ろを振り返っていて
モゾモゾしている私の動きを変に思ったようで
「何やってんねん!」 みたいな事を言ってきたので
私はフィルムから手を離し 右手を上げて何もしていない事をアピールしました
「コソコソすんなよっ!」 と言ったかのかは知りませんが 何かをわめいて
兵士は また前を向いてくれました
フィルムはシートの上に放り出したから 手探りで探してみるのですが
なかなか見つかりません
動けないギュウギュウ詰めの車内で怪しまれずに探すなんて無理
手が届くところはすべて探したけど分からない
そんなことをしている間に とうとう何がしかの施設に到着してしまった
あーだめ もうだめ 私はあきらめました
ゲートで一旦停止し さらに敷地内に入っていく
広いので軍の施設と思ったけど 後から聞いた話では警察の施設だったらしい
車が止まり ドアが開き ひざの上の兵士がまず降り
反対側でもUPIのとなりの兵士が降りたようです
運転席 助手席の兵士も ほぼ同時に降りました
3秒くらいでしょうか 兵士の目が私から離れたのです
その時シートを見たら
なんと! フィルムが落ちていたのです
とっさに私はフィルムを手に握り込みました
そしてカメラを持ち 開いている裏ぶたを閉めようと思いながら車から降りた・・・
と同時に 突然兵士からカメラを取り上げられました
ストラップを持って取り上げられたカメラの裏ぶたはパッカリ開いた状態
兵士はカメラを覗きこみ フィルムが無いことを知ります
「フィルムは?」 と手を出す兵士
えーとえーと フィルムはー・・・
フィルムを手に握り締めたまま 言葉に詰まる私
池の鯉状態で口だけパクパクしていたに違いありません
アフガンに来てカメラバッグフルセットを持って撮影をしていた時は
いつもダミーのフィルムを持ち歩いていたのです
何か問題があってフィルムをよこせと言われた時に渡すためのもの
それを使うのが今なのですが それが今無い (泣)
悪い頭をフル回転して 何とか言い逃れをしようと思うのですが
何も出てこない
その時
横にいたUPIカメラマンが
「現場で兵士に取られたんだ」
と言い出しました
私は急に話し出した彼にぎょっとしましたが
すぐにコメツキバッタのように頷き
「はいはい! そうでっせ! 爆弾 現場 フィルム 兵士 持って行った!」
あらん限りの知っている単語を並べ立て 兵士に訴えました
実際UPIは現場でフィルムを没収されたのだろう
彼の話は理にかなっていた
考えてみれば とっ捕まった時の兵士は現場に残ったままで
ここにきた兵士は ジープに乗せられる時からしか知らない別の人間だ
私はそれで押し通すことにしました
フィルムを握り締めたまま (泣笑)
身体検査されたらオシマイの 浅はかな行為だったけど
なぜかまだ諦めないでいたのです
再現してみました 私 手がでかいので結構隠れていたのですね
こりゃまたラッキーなことに すぐには身体検査はしませんでした
先頭は兵士 次にUPI その次が私で 後ろに兵士
一列で歩いて建物の中に入ってゆきます
とにかく手に持っているフィルムをなんとかしなければいけません
ジャンケンをさせられてもグーしか出せないのです
手の甲を上にすれば かろうじてチョキは出せるかもしれませんが不自然さでバレます
私は何を心配しているのか もう半泣き状態になってきました
建物の中に入り廊下を歩いています
ポケットに入れたってすぐにバレるし ぐるぐる考えた挙句・・・
歩きながらシャツをジーンズの中に入れなおす振りをして
ちょうどベルトバックルの裏側に入れることが出来ました
やった!
ようやく手が解放されたのです
でも服を脱がされたら一巻の終わりの幼稚な隠し場所
ひょっとするとずっと手に持ってたほうが
良かったんじゃないかと思ったりしながら・・・部屋に入りました
すぐに身体検査が始ります
なんとラッキー この検査は拳銃など武器の所持をチェックする程度の検査でした
ズボンを脱がされずに済んだことに気を良くした私は少し落ち着いて来ました
小学校の教室くらいの広さの部屋にUPIカメラマンと一緒に椅子に座らせ
取調官2人 警備の兵士2人で尋問が始りました
私のアレな英語ではラチがあかないと感じた取調官は
主にアメリカ人であるUPIカメラマンに質問をしていきます
私は意味が分かる時は そうだそうだと相槌をうち
分からない時はきょとんとして子犬のような目で取調官を見ていました
とにかく身元をはっきりさせないとまずい・・・
ああ その身元をはっきりさせるパスポートはホテルに置いてある
これは忘れて来たわけではなく あえて持たないようにしていたのです
こういう事態になって もしパスポートを取り上げられたら
もうどこにも行けなくなります
ですからパスポートは保管しておいてコピーを持ち歩くようにしていたのですが
コピーを忘れて来た・・・・
しっかりしたジャーナリストなら社の発行したプレスカードを持っています
フリーのジャーナリストでも どこかの団体に加入しプレスカードを持っているのです
私のようなどこの馬の骨か分からない人間は怪しさが炸裂しているのです
ゲリラの一派でハザラ族という部族がいるのですが
この人たちの顔つきはモンゴル系で日本人にも見えます
結局 私にはチープな作りの「日本アフガニスタン友好協会」(泣笑)の名刺しかありませんでした
尋問の中で 忘れてくれれば良いのにフィルムの話がまた出てきて
「どこへやった?」
「だから兵士に取られたんだって! 現場で」
「本当か? 確認取らせるぞ」
「い いいよ別に・・・」
「確認取るぞ?」
「オ オフコース」
いかんヒザが震えてきた
しかもガクガク
悟られないように必死で手で押さえつけた
もう くじけそうになった
フィルムをポロって出しちゃって 「あら? こんなところに入ってたわ!」
って渡してしまおうと思った
ギャグで許してくれるかな
でも
でも もう引っ込みがつかないー!
確認を取るというのはハッタリだったと思うのです
でもバレたら 良くて半年捕まっているフランス人と同じ
悪くて処刑? え? こんなことくらいでーー!? そんな殺生な!
誰もそんなことは言っとらん
私の妄想です
ひとりで妄想を膨らまして 口をパクパク足はガクガク
まな板に乗せられてパクパクビチビチしている鯉そのものだ
そんな忙しくしている私にまたしても助け舟が入った
「とにかく私たちを釈放しないとジャーナリスト仲間が黙っちゃいないぞ」
UPIカメラマンが強気に出ました
あんたは偉い! そうだそうだ! 行けー がんばれー! 私は心の中で応援します
彼はさらに続けます
「身元を確認したいのならカブールホテルに私たちを連れて行け」
「宿泊名簿に名前はあるだろうし プレス仲間も私たちを知っている」
この申し出に取調官は なるほどと思ったようだ
「わかった 確認のためにホテルに人を出す」
「でもお前たちはここで待っていろ」
一瞬このままホテルに行けるかと思ったが甘かった
しかし 私たちがホテルにいたことは間違いないし
日本人の記者たちもいるはず(サンケイ 読売 朝日 NHKが来ていた)
きっと何とかなるだろう
30分くらい待つと 君たちは釈放だと言われた
これまで約1時間半がたっていた
「じゃ 帰るね さようなら」 と さっさと席を立って
テーブルの上に置いてあったカメラを返してもらい
建物の外に出て ゲートの方に歩き出そうとしたら
ちょっと待て 車で送るという
え? 送ってくれるの?
と ここで喜んではいけない
車で山にでも連れて行かれて 処刑されてしまったりする可能性だってあるのだ
「いえいえ結構です」
「ノーサンキューでございます」
と 二人で固辞するのだが 許してくれない
とうとう車に乗せられてしまい 送ってもらうことになった
途中 道をあーだこーだ指図し なんとか山に行かせないように頑張った
結局 そんな心配は無用で アッサリと車はホテルの前に横付けしてくれた
私とUPIは運転手に礼も言わずにホテルの中に飛び込んだ
それこそダッシュで
ホテルのロビーに飛び込んだら
行動を制限されていて情報を欲しがるメディアたちが一斉に私たち二人を取り囲む
「お前ら拘束されたんだって?」
「現場はひどかったのか?」
「犠牲者はいたのか?」
「6人は死んだと思う」
UPIカメラマンと顔を見合わせてそう答えた
スゴイと思った
ここで私が100人と言ったら世界中に100人死亡と情報が流れるのだろうか
現時点では私とUPIしか知らない情報を持っていて
名だたる世界中のメディアが私の言葉に注目している
そんな状況にいる自分にワクワクしていたのでした
それ以降は二人別々に取材されることに
私の方は日本の新聞社などに経緯を話した
しかし新聞沙汰になるのが恥ずかしかったので
日本のメディアの人たちには 今回は勘弁してくださいと お願いした
まあ今回は無事だったし しょうがないねと快く受け入れてくれたのだけど・・・
しまった
通信社というものがあった
そういや取り囲まれた時にAP通信社の人間(アメリカ人だったと思う)が
「名前はー?」 とか聞いてきたので
「オータや!」
「オータ ヤススケ!」
って言葉だけで言ったんだっけ
で このAP通信社の記事を この場に来ていない毎日新聞が買ったというわけ
記事の中でフィルムを取り上げられたとあるのは
当然そう言わないとマズいことになるからですね
そうこうしているちにビザの期限が来て 私は一度日本に帰る事になりました
そして2週間後に またアフガニスタンを訪れることになります
そしてその訪問はアホみたいな結末で終わることになるのです
続く
どーん
奴が還ってきた
メシをくれ
メシ入ってないぞ
だめだよ シマジロウ
悪いけど君には ごはんをやることは出来ない
もう決定した
いくら来ても追い返すよ
それに知っているんだよ
うちから少し離れたところをテリトリーにしているところを見たし
たぶんそこでもごはんを貰っているだろう
しかも君が近所の優しいおばあちゃんちで ごはんを貰っていて
ミヨコさまを追い出したのも知っている
今まで何年もずっと おばあちゃんからごはんを貰っていたミヨコさまが
うちのほうで食べるようになってしまったのだから
そして 何よりもしてもらったら困ること
ぽーをいじめるようになったからね
ぽーは弱虫なんだよ
私に通じるものがある ぽーは私にとって特別な存在
だめだだめだ
ごはんは他所で貰ってくれ
ごはん・・・
ごめんよシマジロウ
ぽー お前も もう少しだけ強くなってくれぃ
アフガニスタン 6
そういえば一日 腹を壊して部屋でのた打ち回ったのを思い出しました
体中の水分出て行くといいますか
かなりしんどい思いをしました (笑)
生水などは一切飲まなかったのですが
生野菜のサラダについていた水分がダメだったようです
看病して世話を焼いてくれたのが
以前掲載したゲリラのお兄さんでした
薬や飲み物などを部屋に届けてくれたのが
本当にありがたかったです
幸い一日で復活できたのでまた仕事に戻れました
これは珍しい アフガニスタンの空挺部隊
皆 若そうですね
ホテルから10分程のところに公園がありました
なんかのんびりしていて
皆の憩いの場所って感じでしたね
兵士たちも明るくフレンドリーで話しかけてきます
アフガンの公用語は「ダリ語」
まったく通じません (笑)
しかしそこは身振り手振りでコミュニケーションがとれました
日本から来たということも理解してもらって
腕相撲したり(全敗) 写真撮ったりしてキャーキャー騒いでいたのです
いつのまにか
結構な人数が集まってきました
さらにワイワイやってると
こんなに集まった(笑)
で この後
警官に連行されることになりました
日本に帰ってフィルムを現像してから気付いたのですが
上の写真の左の方に白いヘルメットかぶったおじさんが写ってますよね
私を連行したのはコイツでした
写真に入ってんじゃねーよ(笑)
連行された理由は
「兵士を集めて 何かを企てただろう」
ということでしたが
ちゃうちゃう! ちゃいまっせー!
と必死の弁解して
日本アフガニスタン友好協会(ウソ)の名刺見せて
とどめに私の担当の政府のお役人に連絡を取ってもらって
釈放されました
はじめは警察の人も怒っていたので ちょっと怖かったです・・・
私を救ってくれた政府のお役人・・・えーっと・・・名前忘れた
この時は感謝したのですがね
この時はね・・・
腹壊していた私の世話をしてくれたゲリラのお兄さん
アフガニスタン 5
カブールを離れ
日帰りで
アフガニスタン北部の主要都市
マザリシャリフに行きました
航空会社は アフガニスタン国営航空 アリアナエアライン
機体は古く シートもイマイチ
笑っちゃったのが
最初に決められた座席の背もたれが・・・
壊れていて 後ろに水平に倒れてしまったのです
幸い後ろに誰もいなかったから良かったものの
もし人がいたら えらいことになっていたかも (笑)
空いていたので もちろん座席は替わりました
壊れた背もたれはずっとそのままでした
コッソリ旅客機の窓から撮影した
ロシア製の戦闘ヘリコプター
当時は なかなか実物を見るのは難しいもので
いくつかの軍事雑誌などに掲載していただきました
マザリシャリフにある有名なブルーモスク
私が初めてイスラム教に触れた瞬間です
スピーカーから流れるコーランが
日本とは確実に違う文化圏に来たことを教えてくれました
青いタイルが美しいです
最近感動したのは
グーグルアースで このブルーモスクを確認できたこと
今まで海外に行ったところを確認してみたくなりますね
また行ってみたいと思うのですが
危険なのでしょうね・・・
マザリシャリフでした
私の平和な旅もここまで
次回平和ボケした私に 思わぬ洗礼が (笑)
素敵なところでしたよ
シロ と まる 再び
アフガニスタン 4
ホテル周りの兵士と仲良くなり
ホテルの従業員とも仲良くなっておきます
現地の人間と仲良くなるというのは
何を置いてでも必要だと思いますよ
観光旅行でさえ知り合いを作っておくと
次回の楽しみは倍増しますよね
政情不安定な国なら なおさらのこと
ピンチになった時に どこで助け船が入るか分かりませんから
まあ何も無ければそれでいいのでしょうけど
慎重派のわたくし(自称)としては いろいろな人たちと
交流をしつつ写真を撮っていきました
カブールは高地にある盆地
4月の日差しは強く紫外線タップリ
気温は涼しく乾燥しています
街に出てみました
結婚式にお邪魔したり
ナン屋さんを覗いたり
こちらは おもちゃ屋さん
靴屋さんですね
キオスクみたいなところ
マイルドセブン売ってました
なぜか日本の3分の2くらいの値段
全く記憶が無いのですが
レスリングのジムも撮影していました
鍛えられた男と男の体が 組んずほぐれつ・・・
なんで撮ったのかなあ(笑)
崖だか住居だかよくわからない
こういう風景は日本には無いですよね
カブール市が見渡せる場所ということで
高台へやってきました
一般の人たちは それなりに幸福そうで
ソ連(当時)にバックアップされた政権も それほど悪くはなかったのでしょう
子供たちがまとわりついて離れません
彼らは偉いですよ
ポケットに手を突っ込むようなことはしません
でも何か欲しくてしょうがない
何にもあげるものがないので
フィルムが入っていた半透明のフィルムケースをあげたら大喜びしていました
いい子達でしたよ
頭に包帯を巻いた物乞いの子供
本当に頭を怪我しているのか怪しいけれど
信じるしかないですもんね
女性を撮影するのは なかなか根性がいります
殆どの女性は撮影されるのが嫌なようで
何度も怒られました
ホテルに戻ると庭に穏健派の反政府ゲリラがいました
政府と対話するためにカブールを訪れていたようです
彼らは自分の身を守るためにライフルの所持を許されていました
カブールの夜景・・・
なんかだらだらと写真を見せるだけになってしまっていますが
どうかお許しください
いざとなったら僕を守ってね の気分(正直な話)
アフガニスタン 3
私がアフガニスタンに到着してから
ずっと心掛けていたのが 知り合いを作ること
幸いカメラという武器があったので
言葉が分からない相手でも
自然と打ち解けることが出来ました
真ん中のサルみたいなのがわたくし
すべての報道陣たちは ひとつのホテルに宿泊させられました
カブールホテルといい 当時ではインターコンチネンタルホテルに次ぐ
まともなホテルであり
場所も大統領府の向い側という安全な立地条件でした
ホテルを警備していた兵士たちは
同い年か もしくは私より若い男たち
後に他の国でも見る事になる
銃口に花を差すという行為
平和をアピールしているのは容易に分かりますが
引き金を引けば 当然弾は花を吹っ飛ばして出て行くでしょう
平和ボケしている私には あまり伝わってこない方法でした
みんなポーズをとるのが好きでしたね (笑)
こちらは大統領府の警備をしている兵士
真ん中はホテルの警備の男
大統領府警護兵士ならエリートのような気がしますが
真ん中の普通の兵士が 妙に馴れ馴れしいですね
階級とか どうなっていたのでしょうかね
とにかく いろいろな人たちと
どんどん仲良くなって 写真を撮る
それを心掛けていたのです
アフガニスタン北部で 日本人ジャーナリストが誘拐されたと報道されています
現在 さまざまな人たちが救出のために水面下で動いておられるでしょう
なんとか なんとか無事に帰ってこられますように・・・・
申し訳ありませんが あと2~3回くらい続きます